人見絹枝21歳 日本人女性初のオリンピックメダリストとなる

人見絹枝21歳 日本人女性初のオリンピックメダリストとなる

人見絹枝21歳 日本人女性初のオリンピックメダリストとなる

 

人見絹枝さんは1907年(明治40年)1月1日、
岡山県の農家に生まれました。

 

岡山県高等女学校(現在の岡山県立岡山操山高校)時代は、
約6キロの道のりを走って通っていたとのことで、
尋常ではない身体能力が培われ、
テニス選手として活躍し、県大会で
優勝を果たします。

 

人見絹枝さんは学校側にその運動能力を評価され、
陸上の大会に出場することをすすめられ、
あまり乗り気ではないまま出場するも、
走幅跳で4m67の当時の日本最高記録を塗り替えて
優勝を果たします。

 

人見絹枝さんの運動能力はさらに注目され、
当時、高等学校を卒業したら女性は
花嫁修業をする時代でしたが、
二階堂体操塾(現在の日本女子体育大学)への進学を
すすめられ入学し、さらにその才能は磨かれていく
ことになります。

 

ここでも競技者として大活躍する中、
大阪毎日新聞社に現役選手の記者としてスカウトされ、
署名記事を書き、読者も人見絹枝さんの書く記事に
注目しました。

 

当時、社会人スポーツという概念がない時代、
人見絹枝さんは記者としての仕事と、
現役選手としての活動をどちらも手を抜かず
こなしていきました。

 

そんな中、スウェーデンで開催される
第2回国際女子競技大会への出場をすすめられます。

 

「まだ競技を始めて一年足らずで日本の代表とは
恐縮です」と、出場を辞退する意思を表明していましたが
周囲の激しいすすめにより、結局日本人として
ただ一人出場する事となり、19歳の人見絹枝さんは
一人、スウェーデンに向かいます。

 

100ヤード走は12秒0で3位、
初めてやった円盤投げで32m62で2位、
走幅跳で5m50の世界記録で優勝。
立ち幅跳びで2m47で優勝し、
たった一人の日本チームで総合5位となり、
名誉賞を獲得するという快挙を成し遂げます。

 

英雄として凱旋帰国した人見絹枝さんに
新たな試練が舞い込みます。
女子陸上選手の参加が解禁された
アムステルダムオリンピックでの
活躍が期待されました。

 

1928年、46カ国が参加する
アムステルダムオリンピックに出場します。
100m走では、予選は1着で通過し、
準決勝では12秒8で4着となり、
決勝進出を逃し、まさかの敗退となってしまいました。

 

人見絹枝さんは100m走での敗退に激しい悔しさを覚え、
「このままでは日本へは帰れない」と、
なんと後日の800m走にエントリーします。

 

予定外の800m走に出走し、
全くの未経験の800mを死に物狂いで
走りぬき、ゴール直後には気を失って倒れるほどの
激走をし、なんと準優勝を果たし、
日本人女性初のオリンピックメダリストとなりました。

 

世界中から人見絹枝さんの走りが激賞され、
のちに「死の800m」と語り継がれることとなりました。

 

という事で
人見絹枝21歳 日本人女性初のオリンピックメダリストとなる
というお話でした。

 

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