本田宗一郎 42歳 藤澤武夫と出会う

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本田宗一郎 42歳 藤澤武夫と出会う

1948年(昭和23年)本田技研工業株式会社を浜松に設立し、
翌年、初の本格的なバイク・ドリームD型を発売し、
バイクやモノづくりへの情熱がますます高まっていた
本田宗一郎さんですが、会社は本田宗一郎さん含め、
バイクや職人ばかりの集まりで、お金の事など経営に関してや、
営業などに関しては、不得手な人ばかりでした。

 

かたや、藤澤武夫さんは東京の町工場を経営した後
戦時中は疎開先の福島県で製造業を営み、
その後、ひと旗上げるべくまた、上京し、
東京で経済を動かす存在になりたいという
強い野心を持っていました。

 

しかし、藤澤武夫さんは
経営や営業に関するノウハウはあっても
技術者ではなく、モノ作りのノウハウはありません。
「アイディアが豊富で、腕のいい技術者はいないだろうか」
と考え、知人の竹島宏さんに相談しました。
竹島宏さんは、中島飛行機という戦闘機を作る会社に勤め、
その後、通商産業省で役人をしている人物でした。

 

藤澤武夫さんが町工場を経営していた際、
中島飛行機と取引をしていて、
藤澤武夫さんと竹島宏さんはそれが縁で
つながりがありました。

 

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竹島宏さんが藤澤武夫さんの相談を受け、
うってつけの人物として紹介したのが、
本田宗一郎さんでした。
竹島宏さんが浜松工業高校で講師をした際に、
本田宗一郎さんと知り合い、
それから親しくしていた仲でした。

 

藤澤武夫さんは、本田宗一郎さんの名前は
噂では知っていました。

 

本田宗一郎さんは「浜松のエジソン」と呼ばれ、
モノ作りをする連中がいつも噂をしていて、
藤澤武夫さんが嫉妬していたほどでした。

 

その2人を竹島宏さんは自宅の応接間で合わせました。
藤澤武夫さんの話に、
本田宗一郎さんは笑顔で相づちを打つだけで、
まったくしゃべろうとしなかったので、
藤澤武夫さんは最初は不審に思ったそうですが、
実は、本田宗一郎の思っていたことばかりを
藤澤武夫さんがしゃべるので、
口をはさむ余地がなかったとの事です。

 

藤澤武夫さんも次第にその事がわかり、
本田宗一郎さんの相づちが心地よくなり、
2人は完全に意気投合しました。

 

それから2ヶ月後、藤澤武夫さんは本田宗一郎さんの会社、
本田技研工業株式会社(ホンダ)に入社する事になりました。

 

ここでホンダを世界的企業に押し上げる最強のタッグが生まれたのでした。

 

という事で今回は、本田宗一郎 42歳 藤澤武夫と出会う
というお話でした。

 

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